【パラリンピック2つの価値】
東京パラリンピックが開幕して1週間余り。
改めて言うのもナンですが、やっぱり、
諸々の障害を乗り越え、残された身体や機能を鍛えに鍛えて、
ひたむきに競技に臨んでいる姿は胸を打ちますね。
開会式、国際パラリンピック委員会(IPC)の
アンドリュー・パーソンズ会長のスピーチ中に、
「WeThe15」というフレーズが出てきました。
さまざまな国際的団体・機関と連携しながら、
世界の人口の15%を占める障害者への差別をなくし、
分け隔てのない社会を実現する、というキャンペーンです。
8/19に立ちあげられ、8/24の東京パラリンピック開会式が
実質的な世界デビューでした。
8/24に放送されたNHKの『持論公論』では、
パラリンピックの価値を2点指摘していました。
1つは、経済的なもの。
ほとんどの競技は、知名度が低く、報道も少ないのですが、
世界各国に報道されるパラリンピックは、
別格の注目を集めることができます。
選手個人にとっても、活躍次第でスポンサーがついたり、
報奨金がもらえたり、就職の道が開ける可能性があります。
選手たちにとってパラリンピックは、
世界一という夢を実現する場であるとともに、
チャンスをつかむ大会でもあります。
そしてもう1つ、大きな価値があります。
スポーツを通して障害者に対する意識を変える、というものです。
脊髄の細胞の異常で、筋力の低下と筋肉が萎縮する難病を患っている
ギリシャのグリゴリオス・ポリクロニディス選手(ボッチャ)は、
「社会、特に子どもたちに、障害者は違いがあるけど平等であると示したい」
と発言しています。
【「平等」と「同じ」はイコールではない】
福岡市生まれ、英国ブライトン在住の著述家で、
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』の著者である、
ブレイディみかこさんは、次のように語っています(7/8付文春オンライン)。
――多様性が議論にのぼるとき、
日本では「平等・公平である」(equality)ことと
「同じである」(sameness)ことが混同されがちです。
人種やジェンダーや性的指向の違いによって、
社会的にハンデを背負わされたり
差別的な扱いをされないようにするのが「公平」です。
多様性は、好むと好まざるとに関わらず既にそこにあるものですから、
その前提を受け入れて、公平に扱いましょうねというのがequality。
でも、日本ではまるで学校のルールのように
「足並みを揃えて同じように振る舞わせ、
同質な人間にする」のが公平性だと思っている。――
「平等・公平」と「同じ」が混同されがちというのは、
とても重要で示唆に富んだ指摘だと思います。
「障害者は違いがあるけど平等であると示したい」という
ポリクロニディス選手の言葉に応える際に、
銘記すべきポイントではないでしょうか。
もっとも、本サイトをご覧いただいているみなさんは、
英語、ひいては異文化に関心をお持ちでしょうから、
多様性にも人一倍理解がおありだと思いますけど(^^)
私は、この種の話で思い出す詩があります。
大正末期から昭和初期にかけて活躍した、
詩人・金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』です。
とても有名なので、ご存知の方も多いでしょう。
多様性とは何か、を見透した詩として敬意をもって掲げます。
『私と小鳥と鈴と』
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。